「年収800万円前後を超えると、幸福度はそれ以上あまり上がらない」。そんな話を聞いたことがある人は多いかもしれません。実際、所得と幸福の関係を調べた研究の中には、一定の所得水準を超えると日々の感情的な幸福が頭打ちになる可能性を示したものがあります(Kahneman & Deaton, 2010)。
ただし、ここから「年収800万円前後が幸福の上限である」と結論づけるのは正確ではありません。研究で示された金額は米国の世帯所得をもとにしたものであり、その後の研究では、より高い所得になっても幸福度との正の関係が続くという結果も報告されています(Killingsworth, 2021)。さらに、後の再分析では、所得と幸福の関係はすべての人で同じではないことも示されています(Killingsworth et al., 2023)。
そもそも、「所得が高い人ほど幸せなのか」という問いだけでも、いくつかの問題を分けて考える必要があります。
第一に、所得が高い人ほど、本当に幸福度も高いのでしょうか。第二に、所得を増やしていくと、どこかの水準で幸福度は頭打ちになるのでしょうか。第三に、「自分の人生には満足している」という評価と、「毎日よい気分で過ごしている」という感覚は、同じものなのでしょうか。
そして、もう一つ重要な問いがあります。仮に年収を増やせば幸福度も高くなるとしても、そのために長く働き、睡眠を削り、自由な時間や家族との時間を減らす必要があるなら、年収は高ければ高いほどよいと言えるのでしょうか。
所得と幸福の関係については、単純な一つの数字では説明できません。研究をたどると、人生全体への満足と日々の感情は同じようには動かず、所得が増えることの意味も、人や所得水準によって異なる可能性が見えてきます。
では、年収はいくらまで増やせば幸せになれるのでしょうか。この記事では、所得と幸福について積み重ねられてきた研究を順に見ながら、まず「幸福とは何を指すのか」から整理していきます。
年収と幸福を考える前に、「2つの幸福」を分ける
年収と幸福の関係を考えるとき、最初に整理しておきたいことがあります。それは、私たちが普段ひとまとめに「幸せ」と呼んでいるものには、異なる側面があるということです。所得と幸福を調べた研究でも、人生全体についての評価と、日々の生活のなかで経験する感情は区別して測定されています(Kahneman & Deaton, 2010)。
一つは、「自分の人生全体をどのように評価しているか」という幸福です。研究では「life evaluation(人生評価)」や「life satisfaction(人生満足度)」などとして測定されます。たとえば、「現在の自分の人生はどの程度よい状態にあると思うか」「人生全体にどの程度満足しているか」といった問いに答えてもらいます。これは、その瞬間の気分というより、自分の人生を少し離れたところから振り返って判断する側面です。
もう一つは、日々の生活のなかで実際にどのような感情を経験しているかです。「experienced well-being(経験的幸福)」や「emotional well-being(感情的幸福)」などの言葉で扱われ、楽しい、うれしいといった肯定的な感情だけでなく、ストレス、不安、悲しみなどの否定的な感情も含めて捉えます。たとえば、ある研究では「昨日、どのような感情を経験したか」を尋ねることで、人生全体への評価とは別に日々の感情を測定しています(Kahneman & Deaton, 2010)。また、スマートフォンを利用して、その時々の気分を繰り返し尋ねる方法も用いられています(Killingsworth, 2021)。
この二つは関連していますが、同じものではありません。たとえば、仕事で希望していた役職に就き、十分な収入を得て、「自分の人生は順調に進んでいる」と評価している人でも、毎日は仕事に追われ、強いストレスを感じているかもしれません。反対に、収入や社会的な成功にはそれほど満足していなくても、家族や友人と過ごす日常には楽しさを感じていることもあり得ます。
実際、所得との関係も二つの幸福で必ずしも同じではありません。所得や教育などの社会経済的な条件は人生評価との関連が比較的強い一方、健康、孤独、介護などの生活状況は日々の感情との関連がより強いことが報告されています(Kahneman & Deaton, 2010)。つまり、「人生をどう評価するか」と「毎日をどう感じているか」では、お金の意味も同じとは限りません。
この違いを無視すると、「所得が高いほど幸福度は高い」という結果と、「一定以上の所得では幸福度が上がらない」という結果が、単純に矛盾しているように見えてしまいます。しかし、何を「幸福」として測ったのかを確認すると、その違いをより正確に理解できます。
では、なぜ「ある程度まで年収が増えると、それ以上は幸せにならない」という考え方がこれほど広く知られるようになったのでしょうか。次に、その出発点となった「75,000ドル」という数字が、実際には何を意味していたのかを見ていきます。
なぜ「年収75,000ドルで幸福は頭打ち」と言われるようになったのか
「年収75,000ドルを超えると、それ以上お金を稼いでも幸せにはならない」。所得と幸福について語られるとき、この数字は長く一つの目安として知られてきました。その出発点となったのが、米国の45万件を超える回答を分析し、所得と2種類の幸福との関係を調べた研究です(Kahneman & Deaton, 2010)。
ここでまず注意したいのは、研究で使われた所得が個人の年収ではなく、年間の世帯所得だったことです。また、「幸福」についても一つの指標だけを見ていたわけではありません。前節で整理したように、自分の人生全体をどう評価するかという「人生評価」と、日々どのような感情を経験しているかという「感情的幸福」が分けて分析されていました。
その結果、人生評価は所得が高くなるほど一貫して高くなる傾向がみられました。つまり、所得が75,000ドルを超えたところで、「自分の人生はうまくいっている」という評価まで上昇しなくなったわけではありません。一方、前日に感じた喜びやストレス、悲しみなどから測った感情的幸福については、所得とともに改善する傾向が約75,000ドル付近までみられたものの、それより高い所得では明確な改善が確認されませんでした(Kahneman & Deaton, 2010)。
したがって、この研究が示したのは、「75,000ドルを超えるとお金には幸福上の価値がなくなる」ということではありません。人生全体への評価と日々の感情では所得との関係が異なり、後者について当時のデータでは約75,000ドル付近から関係が平坦になった、というのがより正確な理解です。
その後、対象を米国だけでなく世界へ広げた研究でも、「所得が増えても幸福がそれ以上高くならなくなる水準」が検討されました。160か国以上、170万人を超える人々のデータを分析した結果、世界全体では、人生評価については年間所得約95,000ドル、感情的幸福については約60,000~75,000ドル付近に「飽和点」が推定されました(Jebb et al., 2018)。
ただし、ここでも重要なのは一つの数字そのものではありません。推定された飽和点には世界の地域によってかなりの違いがあり、所得水準の高い地域では、幸福が飽和すると推定される所得水準も高くなる傾向がありました(Jebb et al., 2018)。つまり、「人間は年収○ドルで幸福の上限に達する」という普遍的な境界が発見されたわけではありません。
この点を考えると、米国や世界全体の分析で得られたドル建ての数字を、その時点の為替レートで日本円に換算し、「日本では年収800万円」「日本では年収1,000万円」が幸福の上限だと考えるのは適切ではありません。物価や所得水準、家計の構成、生活環境などが異なる以上、海外研究の所得額をそのまま日本人の「幸福になる年収」に置き換えることはできないからです。
それでも、ここまでの研究を見る限り、「所得がある程度まで増えると、日々の幸福への効果は小さくなる」という考え方には一定の根拠があるように見えます。では、本当に高所得になると感情的幸福はそれ以上高くならないのでしょうか。この見方を改めて検討することになったのが、その後のより細かな測定を用いた研究でした。
その後の研究では、75,000ドルを超えても幸福度は上昇していた
「年間所得が75,000ドルを超えると、日々の幸福はそれ以上高くならない」という見方は、その後の研究によって改めて検討されました。そこで用いられたのが、日々の生活のなかで、その瞬間にどのような気分でいるのかをスマートフォンで繰り返し尋ねる方法です。
この研究では、米国に住む就業成人33,391人を対象に、日常生活のさまざまな時点で「今どのように感じているか」を尋ねました。集められた経験的幸福に関する回答は約170万件にのぼります。過去一日を振り返って感情を答えるのではなく、生活している最中の感情を繰り返し測定することで、日々の幸福をより細かく捉えようとした点が特徴です(Killingsworth, 2021)。
分析すると、所得が高い人ほど、その瞬間の気分を示す経験的幸福も高い傾向がみられました。そして重要なのは、年間世帯所得75,000ドルを超えたところでも、経験的幸福が明確に横ばいになる証拠は確認されなかったことです。人生全体をどのように評価しているかという評価的幸福についても、所得が高いほど高くなる関係がみられました(Killingsworth, 2021)。
ただし、この結果を「所得を100万円増やせば、どの所得水準でも同じだけ幸福度が上がる」と理解するのは適切ではありません。この研究で所得と幸福の関係を捉えるうえで重要なのは、所得の絶対的な増加額よりも、所得がどの程度の割合で増えたかという考え方です。
たとえば、仕組みを説明するための単純な例として、年収300万円から600万円になる場合と、600万円から1,200万円になる場合を考えてみます。どちらも増加額は異なりますが、所得は2倍になっています。一方、年収1,000万円から1,300万円への増加は300万円増えているものの、所得全体に対する増加割合はそれほど大きくありません。これは日本人についてこれらの年収水準を直接比較した研究結果ではなく、所得の対数的な関係を理解するための例です。
実際、この研究では、所得そのものよりも所得の対数を用いたとき、幸福との関係が比較的直線的に捉えられました(Killingsworth, 2021)。言い換えれば、所得を一定額ずつ増やすたびに同じ大きさの幸福が追加されるというより、所得水準が高くなるほど、同じ金額の追加所得が持つ相対的な大きさは小さくなっていくと考える方が近いでしょう。
これは経済学でいう「限界効用逓減」と似た考え方ですが、この研究が直接測定したのは所得の効用そのものではなく、所得と主観的な幸福との関連です。そのため、「お金の限界効用がこの研究によって証明された」とまでは言えません。それでも、「ある金額を境にお金の幸福への意味が突然なくなる」と考えるより、所得が高くなるにつれて追加所得と幸福との関係を相対的に捉える方が、研究結果には沿っています。
もちろん、ここで確認されたのは所得と幸福の関連であり、所得を増やせば必ずその分だけ幸福になるという因果関係が示されたわけではありません。それでも、75,000ドルという一つの境界を超えた途端に幸福の上昇が止まる、という単純な見方には疑問が生じます。
では、2010年に示された「頭打ち」と、2021年に示された「上昇の継続」は、どちらが正しかったのでしょうか。この一見矛盾する結果を整理すると、所得と幸福の関係は、すべての人に同じ形で現れるわけではないことが見えてきます。
では結局、幸福になる年収の上限はあるのか
ここまでを見ると、2010年と2021年の研究は正反対の結論を出しているように見えます。2010年には、年間世帯所得が約75,000ドルを超えると日々の感情的幸福はそれ以上改善しにくいという結果が示されました。一方、2021年には、75,000ドルを超えても経験的幸福は所得とともに上昇していました。では、どちらを信じればよいのでしょうか。
この対立を検討するため、2023年には両方の研究に関わった研究者が共同でデータを再分析しました。そこで重要だったのは、所得と幸福の関係を「平均的な人」だけで見るのではなく、もともとの幸福度が低い人、中程度の人、高い人に分けて調べたことです(Killingsworth et al., 2023)。
分析すると、所得と幸福の関係は、すべての人で同じ形をしているわけではありませんでした。幸福度分布の低い側では、所得が低い段階では所得の増加とともに幸福度が上昇していましたが、年間所得が10万ドル前後を超える高所得域になると、その関係がかなり平坦になる傾向が確認されました(Killingsworth et al., 2023)。
ただし、ここで注意が必要です。この結果は、「幸福度が低い人は全員、年収10万ドルで幸福が頭打ちになる」という意味ではありません。分析では、幸福度分布の低い側を代表する水準として15パーセンタイルなどを用い、所得との関係に変化があるかを統計的に検討しています。10万ドルという値も、すべての人に共通する心理的な境界線として発見されたものではありません。
一方、幸福度が中程度の人では、10万ドルを超えても所得が高いほど幸福度が高いという正の関係が続いていました。さらに幸福度分布の高い側では、高所得域でもその関係は失われず、分析によってはむしろ高所得域で所得と幸福との関連が強くなる傾向も確認されました(Killingsworth et al., 2023)。
この結果から見えてくるのは、2010年と2021年の研究が、必ずしもどちらか一方だけ誤っていたわけではないということです。2010年に報告された「高所得域での平坦化」は、幸福度の低い側にいる人々については再現されました。一方で、2021年に示された「高所得になっても幸福度は上昇する」という関係も、中程度以上の幸福度にある人々では確認されました。
つまり、両者の違いを理解する鍵は、「所得と幸福の関係には、人による違いがある」という点にあります。平均値だけを見れば一つの曲線に見えても、その背後には、所得が増えても幸福度が伸びにくくなる人と、高所得域でも幸福度との正の関係が続く人が混在しています。
ここまでの研究から、この記事のタイトルである「年収はいくらまで増やせば幸せになるのか」という問いには、一つの数字で答えることはできません。少なくとも現在の研究から、「誰にとっても年収○万円まで増やせば幸福になり、それ以上は意味がない」という万人共通の上限を設定することはできません。
しかし、だからといって「年収は高ければ高いほど、必ず幸福になる」と結論づけることもできません。ここまで確認してきたのは、あくまで所得と主観的幸福との関連です。所得が高いこと自体が幸福を生み出しているのか、それとも他の要因も関係しているのかは、別に考える必要があります。
さらに重要なのは、所得が増えることで、私たちの生活の何が変わるのかという点です。経済的な安心が増えるのか、選択肢が広がるのか、それとも高い所得を得るために時間や健康を使うのか。ここから先は、「幸福になる年収の上限」を探すだけでなく、お金がなぜ幸福と関係するのかを考える必要があります。
なぜお金が増えると幸福になりやすいのか
所得が高い人ほど幸福度も高いという関係が確認されたとしても、それだけで「お金が増えたから幸福になった」とは言えません。もともと健康であったり、能力や社会的なつながりに恵まれていたりする人ほど、所得も幸福度も高くなる可能性があるからです。通常の所得と幸福の比較だけでは、お金そのものが幸福にどの程度影響しているのかを切り分けることは簡単ではありません。
この問題を考えるうえで興味深いのが、スウェーデンの宝くじ参加者を対象とした研究です。宝くじでは、同じ条件のもとで参加した人の間でも、当選する賞金額に偶然の違いが生じます。この性質を利用して、賞金によって資産が増えたことが、その後の心理的なウェルビーイングにどのような影響を与えたのかが調べられました(Lindqvist et al., 2020)。
分析対象となったのは3,362人の宝くじ参加者で、主要な宝くじの結果から5~22年が経過した時点の状態が調査されました。つまり、「大金を手にした直後に気分がよくなったか」を調べたのではなく、資産の増加がその後の人生に長く残る影響を検討した研究です(Lindqvist et al., 2020)。
結果は、「お金が増えれば、あらゆる意味で幸せになる」という単純なものではありませんでした。賞金額が大きいほど、人生全体をどのように評価するかという人生満足度には、長期的な正の効果が確認されました。しかも、その効果が調査時点までに明確に消えていくという証拠はみられませんでした(Lindqvist et al., 2020)。
さらに大きな違いがみられたのが、自分の経済状況への満足度です。税引後10万ドル相当の賞金増加に対する推定効果は、標準偏差でみると人生満足度が0.037だったのに対し、経済状況への満足度では0.067でした。研究では、経済状況への満足の改善が、人生全体の満足度が高まる重要な経路の一つである可能性が示されています(Lindqvist et al., 2020)。
一方、日常的な「幸福感」についての推定効果は0.016と小さく、統計的にゼロと明確に区別できませんでした。メンタルヘルスについても同様に推定効果は小さく、明確な改善は確認されていません(Lindqvist et al., 2020)。つまり、資産が増えることは、人生への評価と日々の楽しい感情に同じように作用するわけではないのです。
この結果は、「お金を増やせば毎日が楽しくなる」と考えることには慎重であるべきだと示しています。その一方で、お金によって経済状況への満足が高まり、長期的な人生満足度も改善する可能性については、比較的明確な結果が得られています。お金は幸福と無関係なのではなく、幸福のどの側面を見るかによって影響の現れ方が違うと考える方が適切でしょう。
ここから先は研究結果そのものではなく、人生の資源配分という視点から考えてみます。経済的な余裕があれば、予期せぬ支出に対応したり、望まない仕事から離れたり、学び直しや休職を選んだりできる場合があります。つまり、お金には消費できるものを増やすだけでなく、生活上の制約を減らし、選べる行動を増やすための資源として使える側面があります。ただし、宝くじ研究が「選択肢の増加こそが幸福を高める」と直接証明したわけではありません。
同じ視点は、働かなくても生活できるだけの資産を持つことを目指すFIREについて考えるときにも重要です。金融的な余裕が働き方や時間の使い方にどのような選択肢をもたらすのかについては、FIREする前に考えるべきこと――退職研究から考える7つの問いでも詳しく考えています。資産を増やすこと自体ではなく、それによって何を選べるようになるのかを分けて考える必要があります。
では、お金によって経済的な余裕が増えても、なぜ私たちはさらに高い年収を求め続けることがあるのでしょうか。その理由を考えるには、自分の所得額だけでなく、周囲の人との比較にも目を向ける必要があります。
年収が増えても、「もっと欲しい」は終わらない
所得が増えれば、生活に余裕が生まれ、できることも増えていきます。それでも、ある程度の所得を得たあとに「もう十分だ」と感じるとは限りません。その理由を考えるうえで重要なのが、私たちは自分の所得を絶対額だけで評価しているわけではないという点です。
英国のデータを用いた研究では、人生満足度との関係を説明するうえで、本人の所得額そのものよりも、比較対象となる集団の中で自分の所得がどの位置にあるかという「所得順位」が重要である可能性が示されました。分析では、所得の絶対額や参照集団の平均所得よりも、参照集団内での順位が人生満足度を予測していました(Boyce et al., 2010)。
ここでいう参照集団とは、自分と比較しやすい人々の集まりです。研究では、年齢や性別、教育などの特徴をもとに比較対象を設定し、その中で自分の所得がどの位置にあるかが検討されています。また、所得順位の効果を分析すると、自分より所得の高い人との比較が、自分より所得の低い人との比較よりも強く関係する傾向も示されました(Boyce et al., 2010)。
ただし、この結果を「他人と比較すると必ず不幸になる」と理解するのは適切ではありません。研究が示しているのは、人生満足度と所得との関係を考えるとき、絶対的な金額だけでは十分に説明できず、自分が周囲と比べてどこに位置しているかという相対的な情報も関係しているということです。さらに、ここで確認されているのは関連であり、所得順位が変わることによって必ず人生満足度が変化すると断定できるわけでもありません。
この視点を「年収はいくらまで増やせばよいのか」という問いに当てはめると、別の問題が見えてきます。たとえば所得が増えて以前より豊かな生活ができるようになったとしても、比較する相手まで変われば、自分の評価基準も変化する可能性があります。これは特定の年収について研究で直接確認された例ではありませんが、所得を絶対額ではなく順位として評価するという考え方から導かれる一つの可能性です。
その結果、自分にとって必要な生活水準とは関係なく、「周囲よりもう少し高い年収」を目標にしていると、所得が増えるたびに新しい比較対象が現れ、目標も更新され続けることがあります。年収500万円を目指していた人が500万円に達したあと、次は700万円、さらに1,000万円と目標を変えていくこと自体が問題なのではありません。重要なのは、その目標が自分の生活や将来のために必要だから設定されているのか、それとも相対的な位置を上げるために設定されているのかを区別することです。
つまり、「十分な年収」を周囲との比較だけで決めようとすると、「十分」という基準そのものが動き続ける可能性があります。所得を増やす目的を考えるなら、自分が何を実現したいのか、どの程度の生活を安定させたいのかという基準を持つことが重要になります。
そして、所得目標を引き上げ続けるときには、もう一つ確認しなければならないことがあります。より高い年収を得るために、私たちは何を差し出しているのでしょうか。所得だけを増やすことが人生全体にとって望ましいかを考えるには、次に、その年収を得るための時間や負担という「コスト」に目を向ける必要があります。
高い年収を得るために、何を支払っているのか
ここまで見てきたように、所得が高い人ほど人生満足度や経験的幸福も高いという関係は、高所得の領域でも確認されています。しかし、「所得が高い人ほど平均的に幸福度が高い」ということと、「より高い年収を目指せば、必ず人生がよりよくなる」ということは同じではありません。年収を増やすという選択を考えるなら、増えるお金だけでなく、そのために何を投入するのかも見る必要があります。
この点を考える手がかりとして、米国の成人約200万人を対象に、世帯所得と人生満足度、前日にストレスを経験したかどうかの関係を分析した研究があります。人生満足度は所得が高いほど高い傾向がみられましたが、ストレスについては異なる関係が確認されました。低所得から中所得の範囲では所得が高くなるほどストレスを経験する割合が低下した一方、年間世帯所得が約63,000ドルを超えるあたりからは、所得が高いほどストレスを経験した割合も高くなる関係がみられました(Akkiraju & Rao, 2025)。
つまり、高所得層では「人生全体にはより満足している一方で、ストレスも経験している」という状態があり得ます。さらに分析では、一定以上の所得層で、長い労働時間とストレスとの関連も確認されています(Akkiraju & Rao, 2025)。人生をどう評価するかと、日々どれだけストレスを感じるかは、必ずしも同じ方向に動くわけではありません。
ただし、この結果には重要な注意点があります。この研究は大規模なデータを用いていますが、観察された関連を分析したものであり、高所得がストレスを引き起こしたと証明されたわけではありません。ストレスの多い仕事だから所得が高い可能性もあれば、職種、労働時間、責任、家庭環境など別の要因が所得とストレスの双方に関係している可能性もあります。したがって、「高年収になるとストレスが増える」と因果関係として一般化することはできません(Akkiraju & Rao, 2025)。
それでも、この結果は年収を人生の目標として考えるときに重要な問いを投げかけます。追加所得を得るために必要なものは、人によって異なります。昇進によって責任が増える場合もあれば、残業や通勤が増える場合もあります。仕事によっては睡眠や自由時間、家族と過ごす時間に影響することもあるでしょう。反対に、労働時間を増やさずに所得を高められる場合もあります。したがって、高所得そのものに一律の「価格」があるわけではありません。
ここで役立つのが、機会費用という考え方です。ある選択に時間や労力を使えば、その資源を別のことには使えません。所得についても、「いくら増えるか」だけでなく、「その所得を得るために何を使うか」を同時に見ることができます。
たとえば、これは研究結果ではなく考え方を示すための仮想例ですが、年収800万円から1,000万円へ増やすために、年間500時間の追加労働が必要だとします。この場合、得られるものは200万円の追加所得です。しかし同時に、年間500時間を仕事へ追加投入する選択でもあります。その500時間を、睡眠、家族、運動、学習、趣味、休息などに使った場合に得られたものは手放すことになります。
だからといって、「年収を増やさず自由時間を増やす方が幸せだ」と一律に決めることもできません。追加の200万円によって経済的不安が大きく減る人もいれば、住宅や教育など重要な目的を実現できる人もいます。反対に、すでに十分な経済的余裕がある人なら、追加所得より500時間の方を高く評価することもあるでしょう。
重要なのは、年収だけを単独で最大化しようとしないことです。追加所得によって得られるものと、そのために投入する時間、労力、健康、自由などを合わせて考えることで、年収を増やすことが自分の人生にとって本当に価値のある選択なのかを判断しやすくなります。
では、万人に共通する「幸福になる年収」がなく、追加所得にも人それぞれ異なるコストがあるのなら、私たちは何を基準に年収の目標を決めればよいのでしょうか。次に、「できるだけ高い年収」ではなく、自分にとって「十分な年収」を考えてみます。
「幸福になる年収」ではなく、自分にとって十分な年収を考える
ここまで見てきたように、所得と幸福の間には平均的には正の関係があります。しかし、「誰でも年収○万円まで増やせば幸福になり、それ以上は意味がない」という共通の境界を研究から決めることはできません。では、自分はいくら稼ぐことを目指せばよいのでしょうか。
ここからは、これまでの研究結果そのものではなく、それらを実生活の意思決定に使いやすくするための整理として考えてみます。「できるだけ高い年収」を目指すのではなく、自分にとって何のためにお金が必要なのかを段階的に考える方法です。
① 生活を安定させるためのお金
最初に考えるのは、日常生活の基盤を維持するためのお金です。住居、食事、光熱費、医療、教育など、生活に欠かせない支出があります。所得が低い領域では、こうした基本的な需要を安定して満たせるようになることが、経済的不安の軽減や幸福度と関係している可能性があります。
ここで必要なのは、「平均的な年収はいくらか」ではなく、自分や家族が生活を維持するために毎月どの程度のお金を必要としているかを把握することです。同じ年収でも、住居費や家族構成、生活する地域によって余裕は大きく変わります。
② 将来の不確実性に備えるためのお金
現在の生活が安定したら、次に考えたいのが将来への備えです。突然の失業や病気、住宅の修繕、子どもの教育、老後など、将来には予測できない支出があります。生活防衛資金や貯蓄、投資などは、将来の支出そのものをなくすものではありませんが、予期しない出来事に対応できる余地をつくります。
ただし、将来のために必要な金額も万人共通ではありません。「老後には一律で○千万円必要」と考えるより、支出、年金、退職時期、保有資産などから必要額を考える必要があります。この問題については、老後2,000万円は本当に必要なのか――海外研究から考える「老後資金」の正しい考え方でも詳しく検討しています。
③ 人生の選択肢を広げるためのお金
さらに経済的な余裕が生まれると、お金は生活を維持するだけでなく、行動の選択肢を広げるためにも使えます。たとえば、転職に備えて一定期間の生活費を確保する、仕事を休んで学び直す、家事を外注して時間をつくる、旅行や経験に使う、あるいは所得を少し下げても労働時間の短い仕事を選ぶ、といった使い方です。
前に見た宝くじの研究では、資産の増加は日々の幸福感よりも、経済状況への満足や人生満足度との関係が強く表れていました(Lindqvist et al., 2020)。この結果だけから「選択肢が増えるから幸福になる」と断定することはできませんが、人生戦略として考えれば、お金を単に消費するための資源ではなく、将来の選択肢を確保するための余力として見ることもできます。
④ それ以上の所得について考える
生活が安定し、将来への備えもあり、自分が望む選択肢をある程度確保できた後では、追加所得の意味を改めて考える必要があります。所得が増えることに価値がなくなるわけではありません。しかし、所得水準が高くなるほど、同じ金額の増加が所得全体に占める割合は小さくなります。また、その追加所得を得るために時間や労力を投入しなければならない場合もあります。
この段階では、「さらに100万円稼げるか」だけでなく、「その100万円によって何ができるようになるのか」「そのために何を使うのか」を考えます。追加所得によって大きな安心や選択肢が得られるなら、その価値は高いでしょう。一方、すでに十分な経済的余裕があり、追加所得のために睡眠や家族との時間、自由時間を大きく減らす必要があるなら、別の判断もあり得ます。
この4段階は、特定の研究によって検証された一つの科学的モデルではありません。所得と幸福、資産と人生満足度、相対所得、所得を得るための機会費用について、ここまで見てきた知見をもとに、実生活で考えやすい形へ整理したものです。
だからこそ、「年収○万円なら十分」という一つの数字を探す必要はありません。必要な所得は、生活費、家族構成、住居、将来設計、働き方、そして何に時間やお金を使いたいかによって変わります。大切なのは、年収をどこまで最大化できるかではなく、自分の人生にとってどこまであれば十分なのかを考えることです。
年収の目標を決めるとは、単に収入の数字を決めることではありません。自分がどのような生活を守り、どのような将来に備え、どのような選択肢を持ちたいのかを考え、そのために必要なお金の水準を決めることなのです。
最大化するべきなのは「年収」ではなく、人生全体の価値である
年収はいくらまで増やせば幸せになれるのでしょうか。ここまでの研究から分かるのは、所得と幸福には平均的に正の関係がある一方、「すべての人が年収○万円で幸福の上限に達する」という万人共通の境界は設定できないということです。高所得になっても幸福との正の関係が続く人がいる一方、その関係が平坦になる人もいます。
また、所得が増えることの意味を、金額だけで考えることもできません。同じ100万円の増加でも、現在の所得に対する相対的な大きさは異なります。資産の増加は人生満足度や経済状況への満足を改善する可能性がありますが、日々の幸福感まで同じように高めるとは限りません。
そして、年収を増やすために何が必要なのかも人によって違います。追加所得を得るために、より多くの時間や責任を仕事へ投入する場合には、健康、睡眠、自由時間、家族との時間など、別の資源との交換が生じることがあります。だからこそ、考えるべきなのは「あと100万円稼げるか」だけではありません。「その100万円は、自分の人生をよりよくするために本当に必要なのか」という問いも同時に必要です。
人生で使える資源には限りがあります。お金だけを最大化するために時間や健康、人間関係を過度に犠牲にすることが、人生全体にとって望ましいとは限りません。反対に、お金を軽視しすぎて経済的不安を抱え、将来の選択肢を狭めることも避けたいところです。金融資本だけでなく、健康や人間関係、人的資本まで含めて考える視点については、40代から何に投資すれば老後は幸せになるのか――晩年の幸福を支える5つの資本でも詳しく考えています。
目指したいのは、年収という一つの数字の最大化ではありません。お金、時間、健康、人間関係、自由という限られた資源を、自分が大切にしたい人生へどう配分するか。その中で「自分には、どこまであれば十分なのか」を決めることこそ、年収と幸福の関係を考える本当の意味なのです。
参考文献
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