老後2,000万円は本当に必要なのか――海外研究から考える「老後資金」の正しい考え方

「老後には2,000万円必要」。この数字を聞いて、自分の老後資金も2,000万円を目標にすべきだと考えたことがある人は少なくないでしょう。

この「老後2,000万円」が広く知られるきっかけになったのは、2019年に金融審議会の市場ワーキング・グループがまとめた「高齢社会における資産形成・管理」です。報告書では、夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯について、当時の平均的な収入と支出から毎月約5万円の不足が生じるとし、その状態が20年続けば約1,300万円、30年続けば約2,000万円の金融資産の取り崩しが必要になると試算しました(金融審議会, 2019)。

しかし、報告書自身が、この金額はあくまで平均的な不足額から導いたものであり、すべての人に2,000万円が必要という意味ではないことを明記しています。実際には、収入や支出、ライフスタイルによって不足額は大きく異なり、不足しない場合もあり得ます。

考えてみれば、同じ年齢でも老後の条件は一人ひとり違います。65歳で完全に仕事を辞める人と70歳まで働く人では、その後に必要となる資産額は同じではありません。公的年金の受給額も違えば、持ち家か賃貸かによって住居費も変わります。旅行や趣味にどの程度お金を使いたいか、何歳まで生きるか、将来どの程度の医療・介護費が必要になるかによっても結果は変わります。

つまり、老後資金を考えるうえで本当に重要なのは、「2,000万円は多いのか、少ないのか」ではなく、「自分にはいくら必要なのか」という問いです。

さらに一歩進めれば、「いくら貯めるか」だけを考えることにも限界があります。退職後の生活を支えるものには、預貯金や投資資産だけでなく、公的年金、企業年金、退職金、住宅、そして退職後に働いて得る所得などがあります。老後の生活は、それらをどのように組み合わせるかによって成り立ちます。

そこで本記事では、経済学や退職研究をもとに、「万人共通の老後必要額」という考え方そのものが妥当なのかを検討します。そして老後資金を、「一定額を貯める問題」ではなく、人生後半に利用できる複数の資源を、いつ、どのように組み合わせるかという資源配分の問題として捉え直します。

目次

そもそも「老後2,000万円」は何を意味していたのか

2,000万円は万人共通の「必要貯蓄額」ではない

「老後2,000万円」という数字は、2019年に公表された金融審議会の報告書「高齢社会における資産形成・管理」をきっかけに広く知られるようになりました。しかし、この数字の意味はしばしば単純化されて受け取られています。

報告書が示したのは、日本人全員について「老後までに2,000万円を貯める必要がある」という基準ではありません。そこで使われたのは、夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯について示された、当時の平均的な家計収支です。報告書では、この世帯像について毎月の赤字額が平均で約5万円になると整理しています(金融審議会, 2019)。

この月々の不足分を金融資産から取り崩して補うと仮定した場合、20年間では約1,300万円、30年間では約2,000万円の取り崩しが必要になる、というのが「2,000万円」という数字の計算根拠です。つまり、2,000万円という金額が先に設定されていたのではなく、平均的な月々の収支差を20~30年間積み上げた結果として示された数字でした。

しかも報告書自身が、この1,300万~2,000万円について、平均的な不足額から単純計算したものであり、実際の不足額は各人の収入、支出、ライフスタイルなどによって大きく異なると明記しています。不足が生じない場合もあり得るとされています(金融審議会, 2019)。

また、この試算は当時の平均的な家計をもとにしたものです。そこには老人ホームなどの介護費用や住宅リフォーム費用といった特別な支出が含まれていないことにも、報告書は注意を促しています。したがって、2,000万円を「最低限必要な金額」あるいは「これだけあれば十分な金額」と読むことは、どちらも適切ではありません。

平均的な家計と自分の家計は違う

この点は、老後資金を考えるうえで非常に重要です。平均的な高齢夫婦世帯の収支と、自分自身の将来の収支は同じではありません。

たとえば、公的年金の受給額が多ければ、金融資産から補う必要のある金額は小さくなります。反対に、年金収入が少なかったり、退職後も高い住居費が続いたりすれば、必要となる金融資産は増える可能性があります。退職後も働いて所得を得るのか、持ち家か賃貸か、どの程度の生活費を使うのかによっても結果は変わります。

さらに、老後が20年間続く人と30年以上続く人でも必要額は異なります。金融審議会の報告書も、一律の金額を目標にするのではなく、公的年金以外でどの程度の金額を賄う必要があるのかを各自で考え、就労の見通しや保有金融資産、退職金などを踏まえて長期的な資産形成・管理を検討することの重要性を示しています(金融審議会, 2019)。

したがって、「老後2,000万円問題」から得るべき教訓は、「誰でも2,000万円を準備しなければならない」ということではありません。2,000万円という試算そのものが問題なのではなく、平均値から導かれた数字を、自分自身の必要額としてそのまま使うことに問題があります。

老後資金を考える出発点は、世間で示された一つの目標額ではなく、自分が将来どの程度の収入を得て、どの程度の支出を必要とするのかを確認することです。

海外研究では「いくら持つか」より「生涯でどう消費するか」を考える

ライフサイクルという考え方

老後資金を考えるとき、私たちは「65歳までにいくら貯めるべきか」という資産額に目を向けがちです。しかし、経済学では、貯蓄そのものではなく、人生の異なる時期に消費をどのように配分するかという視点から家計の行動を考えてきました。

その基礎となる考え方の一つが、ライフサイクル型の消費・貯蓄理論です。1954年に示された理論では、人は現在の所得だけを基準に消費を決めるのではなく、保有する資産や将来得られると見込む所得など、生涯に利用できる資源を考慮して消費を選択すると考えます(Modigliani & Brumberg, 1954)。

この考え方が重要なのは、所得が人生を通じて一定ではないからです。一般に、働いて所得を得る時期がある一方、退職すれば労働所得は大きく減少します。もし毎年の消費をその年の所得だけで賄おうとすれば、現役期には比較的多く消費できても、退職後には生活水準を大きく下げなければならなくなる可能性があります。

そこで、所得のある時期にすべてを消費せず、一部を貯蓄して資産として蓄えます。そして、退職後には蓄積した資産を取り崩して消費に充てます。こうすることで、現役期に得た購買力の一部を、労働所得が減少する将来へ移すことができます。

もちろん、実際の人生では将来の所得も寿命も運用収益も確実ではありません。1954年の理論を、そのまま現代の個人の老後資金計画に適用できるわけでもありません。それでも、「現在の所得だけを見るのではなく、生涯に利用できる資源と消費を考える」という基本的な視点は、老後資金を考える出発点になります。

資産形成そのものが人生の目的ではない

この視点に立つと、「老後までに2,000万円を持つ」という目標の見え方も変わります。重要なのは、ある年齢で金融資産がいくらあるかだけではありません。その資産によって、所得が少なくなる時期の生活をどの程度支えられるのかが問題になります。

たとえば、現役期に必要以上に消費を抑え、できるだけ多くの資産を残すことが、常に望ましいとは限りません。反対に、現役期に所得をすべて使ってしまい、退職後の生活を支える資源をほとんど残さないことにも問題があります。ライフサイクルの視点から重要なのは、単純な資産額の最大化ではなく、生涯に利用できる資源の制約のなかで、異なる時期の消費をどう配分するかです。

ここから人生戦略として一つの考え方を導くことができます。それは、資産形成とは、現在のお金の一部を、より必要となる将来へ移動させる手段であるという捉え方です。これは1954年の研究がそのまま述べた表現ではなく、ライフサイクルの考え方を老後の人生設計へ応用したものです。

そう考えると、「老後に2,000万円必要か」という問いだけでは十分ではありません。本当に考えるべきなのは、現役期と退職後を含む人生全体のなかで、いつ、どの程度のお金を使いたいのか、そのために現在の所得のうちどの程度を将来へ移す必要があるのかという問題です。

老後資金の目的は、資産残高という数字そのものを大きくすることではなく、人生後半で必要となる生活を支えることにあります。この視点に立つことが、「2,000万円」という一つの数字から離れて、自分自身の老後資金を考えるための第一歩になります。

「全員2,000万円」が成立しにくい理由

適切な資産蓄積額は世帯によって違う

老後資金について「2,000万円」「3,000万円」といった一つの目標額を設定すると分かりやすくなります。しかし、経済学のライフサイクルモデルから考えると、すべての世帯に共通する一つの金額を「適切な老後資産」とすることには無理があります。

米国の世帯を対象とした研究では、世帯ごとの所得履歴を利用しながら、寿命の不確実性、所得や医療費のリスク、累進課税、政府からの給付、企業年金や公的年金などを組み込んだライフサイクルモデルによって、それぞれの世帯について最適な資産蓄積の水準を推計しています(Scholz et al., 2006)。

重要なのは、この研究がすべての世帯に同じ目標額を設定していないことです。所得の推移も、家族構成も、将来受け取る年金も世帯によって異なります。そうした条件が違えば、現役期にどの程度貯蓄し、退職時点でどの程度の資産を持つことがモデル上適切なのかも変わります。

実際、この研究では、モデルから推計された世帯ごとの目標資産額と実際の資産額を比較しています。その結果、実際の資産がモデル上の目標を下回っていた世帯は20%未満でした。また、貯蓄不足と判定された世帯でも、その不足幅は全体として小さいことが示されています(Scholz et al., 2006)。これは米国の特定時点のデータとモデルに基づく結果であり、日本の家計にその割合をそのまま当てはめることはできません。しかし、老後に適切な資産額は、世帯ごとの条件を踏まえて考える必要があるという点は、老後2,000万円を考えるうえで重要な示唆になります。

同じ2,000万円でも意味は違う

この違いを理解するために、3つの架空の世帯を考えてみましょう。以下は研究で扱われた事例ではなく、考え方を分かりやすくするための例です。

Aさんは持ち家があり、比較的厚い公的年金を受け取り、65歳で退職するとします。Bさんは賃貸住宅に住み、年金額が少なく、60歳で退職するとします。Cさんは持ち家があり、70歳まで働いて労働所得を得るとします。

3人が退職前後に同じ2,000万円の金融資産を持っていたとしても、その意味は同じではありません。BさんはAさんより長い期間にわたって金融資産から生活費を補う必要が生じるかもしれません。賃貸であれば住居費も継続します。一方、Cさんは70歳まで働くため、その間に労働所得を得られるという前提になります。

もちろん、これだけの情報で3人のうち誰が最も十分に準備できているかを判断することはできません。生活費、年金額、寿命、住宅関連費なども確認する必要があります。だからこそ、金融資産残高だけを取り出して比較することには限界があります。

「目標額」ではなく「自分の不足額」を考える

老後資金について考えるときは、「2,000万円を持っているか」という目標額から出発するより、自分の将来の支出と、そこに充てられる所得や資源との差を考える方が合理的です。

その基本的な考え方は、次のように整理できます。

老後に必要となる資産 ≒ 将来必要となる支出 − 将来受け取れる所得・利用できる経済的資源

これはScholz et al. (2006)が提示した計算式ではなく、本記事で老後資金の考え方を整理するための概念式です。実際の必要額を計算するには、支出が発生する時期、年金などを受け取る時期、寿命の不確実性、物価変動、資産運用なども考慮する必要があり、単純な引き算だけで決まるものではありません。

それでも、この考え方には重要な意味があります。老後資金の問いを、「世間で示された目標額まで、あといくら足りないか」から「自分の将来の生活を支えるために、何がどの程度不足するのか」へ変えられるからです。

老後に必要な資産額を考える出発点は、「全員2,000万円」という一つの数字ではありません。自分がどのような収入、支出、年金、住宅、就労期間を持つのかを整理し、その条件に応じた将来の収支を考えることです。

「退職後は現役時代の70~80%必要」も絶対的な基準ではない

所得代替率という考え方

老後資金を考える方法の一つに、「所得代替率」があります。これは、退職前の所得に対して、退職後にどの程度の所得を確保するかを割合で表す考え方です。たとえば退職前の所得が年500万円で、退職後に年350万円を確保するなら、単純な比率では70%となります。

退職後には仕事に伴う支出が減ったり、現役期に行っていた貯蓄が不要になったりするため、退職前とまったく同じ所得を維持しなくても生活水準を保てる場合があります。そのため、老後準備では退職前所得の一定割合を目安にする方法が広く使われてきました。

ただし、「退職後は現役時代の70~80%あれば十分」という数字を、すべての人に適用できる基準と考えるのは適切ではありません。老後に必要な資産額を検討した研究でも、単純な一つの比率ではなく、所得や家族構成など複数の条件を反映したライフサイクル型の計算によって、必要となる退職資産が大きく変わることが示されています(Skinner, 2007)。

つまり、所得代替率は老後生活を考えるための目安にはなっても、「この割合を満たせば十分」という万人共通の正解ではありません。

同じ所得でも必要な老後資金は違う

なぜ一つの所得代替率では決められないのでしょうか。その理由の一つは、退職を境に家計の支出構造そのものが変化するからです。

現役期には、通勤、仕事着、外食など仕事に関連する支出があります。子どもが独立すれば、教育費や生活費の負担が小さくなる場合もあります。住宅ローンを退職前に完済する世帯なら、退職後の住居関連支出も現役期とは異なります。また、現役期には所得の一部を老後のために貯蓄していたとしても、退職後はその貯蓄を続ける必要がなくなる場合があります。

一方で、年齢を重ねるにつれて増える可能性のある支出もあります。とりわけ重要なのが医療費です。老後にどの程度の資産が必要かを考える際には、現在の生活費だけではなく、将来の自己負担医療費が増加する可能性を考慮する必要があると指摘されています(Skinner, 2007)。

さらに、退職後に旅行や趣味へ多くのお金を使いたい人もいれば、自宅を中心に比較的少ない支出で暮らしたい人もいます。介護についても、必要になるかどうか、どのようなサービスを利用するかによって家計への影響は異なります。

したがって、退職前の所得が同じ二人であっても、住宅費、家族構成、健康状態、望む生活などが違えば、退職後に必要となる支出も同じにはなりません。

年収ではなく「維持したい生活」を考える

このことから、老後資金を考えるときには「現役時代の年収の何%を確保するか」だけでなく、退職後にどのような生活を維持したいのかを考える必要があります。

たとえば現役期に年収800万円だったとしても、その80%にあたる年640万円を老後にも必ず確保しなければならないとは限りません。反対に、現役期の所得が低かったからといって、その一定割合だけを確保すれば十分とも限りません。医療費など予測しにくい支出に備える余力も必要だからです。

実際、老後に十分な貯蓄があるかという問いは単純ではなく、所得だけでなく、消費、住宅、家族構成、医療費など複数の条件によって答えが変わります(Skinner, 2007)。

これは「老後2,000万円」という固定額を考える場合と同じ問題です。固定された金額を一律に当てはめる代わりに固定された所得代替率を当てはめても、個人差の問題は残ります。老後準備で本当に知りたいのは「現役所得の何%か」ではなく、自分が望む生活を支えるために、どの程度の資源が必要なのかということです。

退職すると生活費は本当に減るのか

退職すると支出が減ることがある

老後に必要な金額を考えるとき、「退職後の生活費は現役時代より少なくなる」と想定することがあります。実際、退職を境に食料への支出が低下する現象は以前から観察されており、標準的なライフサイクル理論から予想される滑らかな消費経路との違いから、「retirement-consumption puzzle」として研究されてきました。

一見すると、退職によって所得が減り、それに合わせて生活水準を下げざるを得なくなったようにも見えます。しかし、ここで注意したいのは、家計が支払った金額である「支出」と、実際に得ている財やサービスとしての「消費」は必ずしも同じではないということです。

米国のデータを分析した研究では、退職に伴って食料への金銭的な支出が低下する一方、買い物や食事の準備に使う時間が増加することが示されています(Aguiar & Hurst, 2005)。

「支出が減る」と「生活水準が下がる」は同じではない

この研究では、退職世帯で食料への支出が低下していても、それと同じ程度に食料そのものの消費が減少しているわけではないことが示されました。退職後には、買い物に時間をかけたり、自宅で食事を準備したりすることで、より少ない金銭支出で食生活を維持できる可能性があります。

さらに、食料摂取に関するデータを用いた分析では、退職によって食事量や食事の質が大きく低下したという証拠は確認されませんでした(Aguiar & Hurst, 2005)。したがって、少なくともこの研究が扱った食料については、「支出が減った」という事実だけから「生活水準も同じだけ低下した」と判断することはできません。

ここから人生戦略の観点で考えると、退職は所得が変化するだけでなく、お金と時間の配分が変化する出来事として捉えることができます。

現役期には仕事に多くの時間を使うため、外食を利用したり、短時間で買い物を済ませたりするなど、お金を使って時間を節約する場面があります。一方、退職後には自由に使える時間が増えるため、買い物や料理などに時間を使うことで、同じような生活をより少ない金銭支出で実現できる場合があります。

もちろん、これは研究で示された結果を「人生戦略」という観点から読み替えたものです。ただし、そこから得られる示唆は明確です。人生の段階が変われば、生活を支えるために必要な「お金」と「時間」の組み合わせも変わり得ます。

だから老後支出を一律には決められない

ただし、この研究が主に分析しているのは食料支出と食料消費です。「退職すれば家計支出全体が必ず減る」と示した研究ではありません。医療や介護、住宅の修繕、旅行や趣味など、退職後に増える可能性のある支出もあります。食料について確認された結果を、老後の生活費全体へそのまま一般化することはできません。

それでも、この研究は「退職後は現役時代の生活費の70%でよい」といった一律の計算に重要な注意を促します。必要な生活費は、所得がどれだけ減るかだけでなく、退職後に自由に使える時間がどれだけ増え、その時間をどのように使うかによっても変わるからです。

老後の支出は、現役時代の支出に一定の割合を掛ければ決まるものではありません。老後資金を考えるときには、金額だけでなく、退職によって生活様式や時間の使い方がどのように変わるのかまで含めて考える必要があります。

老後資金を難しくするのは「何歳まで生きるか」が分からないことである

平均寿命は自分の寿命ではない

老後資金を考えるとき、「65歳から平均寿命まで何年間あるか」を計算し、その年数分の生活費を準備する方法があります。しかし、この考え方だけでは十分ではありません。平均寿命は集団についての統計であり、自分自身が何歳まで生きるかを示す数字ではないからです。

たとえば、90歳まで生きる前提で資産の取り崩し計画を立てても、実際には95歳、100歳まで生きる可能性があります。反対に、長生きする可能性だけを重視して支出を極端に抑えれば、十分な資産を持っているにもかかわらず、老後に使えるお金を必要以上に残してしまうことも考えられます。

つまり、老後資金の難しさは平均寿命が何歳なのかということより、自分自身が何歳まで生きるのかを事前には知ることができない点にあります。

長寿リスクとは何か

この不確実性から生じるのが「長寿リスク」です。個人の老後資金という観点では、想定していたより長く生きることで、生存中に金融資産が不足してしまう可能性を意味します。

預貯金や投資信託などを自分で取り崩して生活する場合、毎年いくら使うかは調整できます。しかし、「あと何年間取り崩しを続ける必要があるのか」は分かりません。資産を早く使えば長生きした場合の不足リスクが高まり、反対に長寿に備えて取り崩しを少なくすれば、現在の消費を抑えることになります。

寿命の不確実性を組み込んだライフサイクルモデルでは、退職資産の一部を終身年金へ転換することによって効用が高まる場合があることが示されています。一方、その価値は、すでに持っている年金所得、死亡確率、婚姻状態、遺産を残したいという意向などによって異なります(Brown, 2001)。

終身所得には金融資産とは違う価値がある

ここで重要になるのが「annuitization(年金化)」という考え方です。これは、保有している資産の一部を、生存している間に継続的な給付を受ける仕組みへ転換することです。

自分の金融資産だけを取り崩す場合、何歳まで資産を残しておく必要があるかという寿命の不確実性を基本的には自分で引き受けます。これに対して終身年金では、長生きした人にも給付が続く仕組みを通じて、個人が単独で負っていた長寿リスクの一部を分散できます(Brown, 2001)。

終身所得の価値は、単に「総額でいくら受け取れるか」だけではなく、何歳まで生きても所得が途切れにくいという点にあります。

ただし、これは「すべての資産を年金化すべきだ」という意味ではありません。自由に取り崩せる金融資産には、医療費、住宅修繕、家族への支援など、予想外の支出へ対応できる流動性があります。遺産を残したいという希望がある場合にも、年金化の評価は変わります。

公的年金も老後を支える重要な資源である

日本では、老齢基礎年金や老齢厚生年金が老後の所得を構成します。老齢基礎年金は受給資格期間などの要件を満たした場合、原則として65歳から受給でき、老齢厚生年金も厚生年金への加入歴などに応じて支給されます。2026年度も法律に基づいて年金額が改定されています。

ここで重要なのは、公的年金を「毎月いくら受け取れるか」という金額だけで見るのではなく、預貯金とは異なる性質を持つ老後資源として考えることです。自分で取り崩す金融資産には残高がありますが、公的年金は受給要件を満たし受給権が続く限り、定期的な所得をもたらします。

海外の年金化研究を日本の公的年金制度へそのまま当てはめることはできません。それでも、寿命が分からない状況では、継続的な所得と自分で取り崩す金融資産が異なる役割を持つという基本的な考え方は共通します。

金融資産2,000万円と、生存中に継続して受け取れる所得は、同じ「老後の資源」であっても性質が異なります。老後の備えを考えるときには、金融資産の残高だけでなく、長生きした場合にも続く所得をどの程度確保できるのかまで含めて考える必要があります。

最新の日本研究では「全員が老後資金不足」とは言えない

日本の大規模データから老後準備を評価する

「老後2,000万円」という議論では、日本人全体が一様に老後資金不足に直面しているように受け取られることがあります。しかし、実際の老後準備状況には大きな違いがあります。

2026年に公表された研究「Am I adequately prepared for old age? Financial preparedness for retirement in Japan」では、厚生労働省の「国民生活基礎調査」の大規模データを用いて、日本の高齢期における経済的な準備状況が検討されています(Oshio & Shimizutani, 2026)。

この研究の特徴は、公的年金の所得代替率だけで老後準備を評価していないことです。公的年金に加えてその他の所得源も考慮し、退職後に得られる所得資源によって、退職前の消費水準を期待される退職期間にわたって維持できるかという観点からfinancial preparednessを評価しています。

つまり、「年金が現役時代の所得の何%あるか」だけを見るのではなく、退職後に利用できる複数の所得資源と、それによってどの程度の生活を維持できるのかを見る考え方です。

約5分の4が基準を満たす一方、約5分の1は不足する

分析の結果、60~64歳の人のうち、約5分の4は、研究で設定された基準に照らして十分な所得資源を持っていると推計されました。一方、残る約5分の1は十分ではなく、法定退職年齢に達した後も就業を続ける必要があると評価されています(Oshio & Shimizutani, 2026)。

ただし、この結果を「日本人の80%は老後資金に問題がない」と読むことはできません。ここでいう「十分」とは、研究上設定された方法によって、退職前の消費水準を期待退職期間にわたって維持できる所得資源があると推計されたという意味です。

また、対象は60~64歳であり、すべての年齢層にその割合をそのまま当てはめることもできません。将来の制度変更や物価、寿命、医療・介護支出などを完全に予測した結果でもありません。

それでも、「すべての人が一律に2,000万円不足する」という見方とは大きく異なります。問題は、国民全体について一つの不足額を決めることではなく、十分な資源を持つ人と、不足しやすい人が存在することです。

重要なのは平均額ではなく「誰が不足しているのか」である

この研究では、老後の経済的な準備状況に一様ではないばらつきがあり、とくに教育歴や婚姻状態によって違いがみられることが報告されています(Oshio & Shimizutani, 2026)。

これは老後資金を考える問いを変えます。「日本人はいくら不足しているのか」という平均値だけを見るのではなく、「どのような条件を持つ人が十分に準備でき、どのような条件を持つ人が不足しやすいのか」を見る必要があります。

老後資金の問題は、全員が同じ不足額を抱える問題ではありません。所得履歴、家族の状況、年金、資産、就業などの条件が異なる以上、必要となる備えも異なります。

働けることも老後の経済的選択肢になる

この研究では、公的年金だけでなく、退職後の賃金所得を含むその他の所得源も老後を支える資源として考慮されています。十分な所得資源を持たないと評価された人について、退職年齢後も働く必要があるという推計が示されていることも、その一例です(Oshio & Shimizutani, 2026)。

ただし、ここから「長く働けば老後資金問題は解決する」と結論づけることはできません。健康状態、仕事内容、雇用機会、家族の事情などによって、働き続けられるかどうかは異なります。

重要なのは、働いて所得を得られる能力も、金融資産とは別の老後の経済的選択肢になり得るという点です。そのためには、人生後半までどのような知識や技能を維持するかという人的資本の問題も関係します。人的資本への投資と年齢の関係については、自己投資は何歳まで元が取れるのかでも詳しく考えています。

老後の準備状況を理解するときに必要なのは、「平均でいくら足りないか」という一つの数字ではありません。自分がどのような所得、資産、年金、働く選択肢を持っているのかを確認し、自分自身の条件のなかで何が不足しているのかを考えることです。

では、自分にはいくら必要なのか――「2,000万円」から自分の必要額へ

STEP 1 どのような老後を送りたいか考える

自分に必要な老後資金を考えるとき、最初から「いくら貯めるか」を決める必要はありません。まず考えたいのは、老後にどのような生活を送りたいのかということです。

住まいは現在の家に住み続けるのか、住み替えるのか。日常生活にはどの程度のお金を使いたいのか。旅行や趣味をどの程度楽しみたいのか。子どもや孫への支援を考えるのか。医療や介護に備えてどの程度の余裕を持たせるのか。遺産を残したいのか。こうした選択によって、老後に必要となる資金は大きく変わります。

重要なのは、「最低限いくらあれば生きられるか」だけでなく、老後に何へお金と時間を使いたいのかを考えることです。望ましい未来像を考え、それと現在との距離を確認する方法については、前向きな未来を思い描くと人生は変わるのかでも詳しく扱っています。

STEP 2 公的年金の見込額を確認する

次に確認したいのが、自分自身の公的年金です。「平均的な会社員はいくら受け取れるか」という数字ではなく、自分の加入記録をもとにした見込額を見ることが重要です。

日本年金機構の「ねんきんネット」では、将来受け取る老齢年金の見込額を試算できます。現在と同じ条件で60歳まで加入すると仮定する簡易的な試算だけでなく、今後の働き方や収入、就業期間、年金の受給開始年齢などを変更した試算もできます。

たとえば、65歳まで働く場合と70歳近くまで働く場合では、老後に必要となる金融資産の意味も変わります。まず自分の年金見込額を確認することで、「2,000万円」という一般的な数字ではなく、自分自身の将来収支を考える土台ができます。

STEP 3 利用できる老後資源を洗い出す

老後を支える経済的資源は、公的年金と預貯金だけではありません。企業年金、退職金、預貯金、株式や投資信託などの金融資産、住宅、退職後の労働所得なども含めて整理します。

ここで大切なのは、すべてを単純に「金融資産残高」としてまとめないことです。公的年金のように生存中継続する所得と、自分で取り崩す預貯金では性質が異なります。住宅も、住み続けるのか、売却や住み替えの選択肢があるのかによって意味が変わります。

老後資金とは、預金口座にいくらあるかではなく、人生後半に利用できる経済的資源全体で考える必要があります。

STEP 4 支出と利用可能な資源との差を考える

ここまで整理すると、自分に必要な金融資産を考える基本的な構造が見えてきます。概念的には、次のように整理できます。

必要老後資産 ≒ 退職後の生涯支出 − 年金・退職金・労働所得などから賄える部分

これは厳密な金融計算式ではありません。実際には、お金を受け取る時期と支出する時期、物価変動、税、運用収益、寿命なども考慮する必要があります。

それでも、この式には重要な意味があります。「2,000万円を貯める」という目標から出発するのではなく、将来必要となる支出のうち、年金などで賄えない部分を金融資産で補うという考え方へ変えられるからです。

STEP 5 一つの数字ではなく複数のシナリオを作る

老後の必要額を一つの数字に決めることが難しい最大の理由は、未来が確定していないことです。そのため、「必要額は2,137万円」と一点だけを算出するより、条件を変えた複数のシナリオを比較する方が現実的です。

たとえば、「65歳で退職して90歳まで生活する場合」「65歳で退職して100歳まで生活する場合」「70歳まで働いて90歳まで生活する場合」を比べてみます。これだけでも、退職後に所得のない期間や資産を取り崩す期間が大きく変わります。

さらに、物価が上昇した場合、医療や介護への支出が増えた場合、住宅費が想定より高くなった場合なども考えます。資産運用についても、特定の利回りが必ず実現すると仮定するのではなく、複数の条件を置いて確認する方が安全です。

老後資金で求めるべきなのは、一つの「正解額」ではなく、どのような条件なら、どの程度の資産が必要になるのかという範囲です。

こうして考えると、「老後2,000万円」という数字との向き合い方も変わります。2,000万円を達成できたかどうかを確認するのではなく、自分が望む生活、自分が受け取れる年金、自分が持つ資産、働く期間、そして将来の不確実性を組み合わせて、自分自身の老後資金を考えることが重要です。

老後資金を「金融資産」だけで考えない

老後を支えるのは金融資産だけではない

老後について考えるとき、最も分かりやすいのは預貯金や投資資産の残高です。しかし、人生後半の安定性や選択肢を決めるのは、金融資産だけではありません。

たとえば、預貯金、投資資産、公的年金、企業年金、退職金などは「金融資本」として老後の生活を直接支えます。これに加えて、専門性や技能、働く能力などの「人的資本」があれば、退職後も一定の所得を得る選択肢を持てる可能性があります。

住まいも重要です。持ち家であれば住居費の構造が賃貸とは異なり、将来的に売却や住み替えを選べる場合もあります。一方で、修繕費や固定資産税なども考える必要があります。ここでは、こうした住まいに関する経済的な選択肢を「住宅資本」と捉えることができます。

さらに、健康状態は働ける期間や自立して生活できる期間に関係します。家族、友人、地域とのつながりといった社会関係も、生活の支えや孤立の回避という意味で重要です。そして退職後には、現役期より自由に使える時間が増える可能性があります。

老後を支える資源は、金融資産だけではなく、働く能力、住まい、健康、社会関係、時間など複数の形で存在します。

この考え方については、40代から何に投資すれば老後は幸せになるのか――晩年の幸福を支える5つの資本でも、人生後半に向けて蓄積すべき資源という観点から詳しく整理しています。

ただし、すべてを「お金」に換算しない

ここで注意したいのは、健康や人間関係を金融資産の代わりとして単純に換算しないことです。

たとえば、健康で長く働けることは老後の所得面で有利に働く可能性があります。しかし、「健康なら貯蓄が少なくてもよい」という意味ではありません。健康状態は将来変化する可能性があり、働けるかどうかは雇用機会や仕事内容にも左右されます。

人間関係についても同じです。家族や友人とのつながりが生活上の支えになることはありますが、それを「金融資産○万円分」と置き換えることはできません。そもそも健康や社会関係は、お金を補うためだけに存在するものではなく、それ自体が人生の満足度やウェルビーイングを構成する重要な要素です。

したがって、ここで複数の資源を考える目的は、「金融資産が少なくても別の資源があれば問題ない」と結論づけることではありません。

重要なのは、老後の豊かさや安定性を金融資産残高という一つの数字だけで評価しないことです。

2,000万円を持っていても、健康を大きく損ない、働く選択肢がなく、住居費が高ければ、老後の自由度は低くなるかもしれません。反対に、金融資産が同じ2,000万円でも、公的年金、持ち家、健康、働く選択肢、社会関係などの条件が異なれば、その金額が持つ意味も変わります。

老後戦略とは、人生後半の資源ポートフォリオをつくることである

人生戦略の観点から見ると、老後準備とは「できるだけ多くのお金を貯めること」だけではありません。人生後半に必要となる複数の資源を、どのような状態で持っていたいのかを考えることです。

たとえば、金融資産はどの程度必要なのか。何歳まで働く選択肢を残したいのか。どのような住まいを維持するのか。健康を支えるために現在の時間やお金をどう使うのか。家族や友人、地域との関係をどう維持するのか。そして、退職後に増える時間を何に使いたいのか。

こうした複数の資源をまとめて考えると、老後準備は一つの「資源ポートフォリオ」をつくる問題として捉えることができます。もちろん、ここでいうポートフォリオは金融投資と同じ意味ではありません。健康や人間関係は売買できる資産ではなく、互いに完全に交換できるものでもありません。

それでも、限られたお金、時間、人的資本、健康、住まい、社会関係を、人生のどの時期にどのように配分するかという視点を持つことで、老後準備を単なる貯蓄目標から広げることができます。

「老後に2,000万円必要か」という問いは、最終的には「人生後半を支えるために、自分はどのような資源を、どの程度持っていたいのか」という問いへつながります。

老後に必要なのは「2,000万円」という数字ではない

「老後2,000万円」は、2019年当時の平均的な高齢夫婦無職世帯の家計収支から導かれた試算であり、すべての人に共通する必要額ではありません。必要な老後資産は、これまでの所得、受け取れる年金、住まい、退職する年齢、望む生活水準、そして何歳まで生きるかによって変わります。

ライフサイクルの考え方から見れば、資産形成の意味も変わります。大切なのは、退職時点の資産残高を最大化することではなく、現役期に得た購買力の一部を、所得が少なくなる人生後半へ移すことです。そのため、老後に必要な資産を考えるには、「いくら持つか」だけでなく「いつ、何のために使うか」を考える必要があります。

しかも、退職によって変化するのは所得だけではありません。自由に使える時間が増えれば、お金と時間の使い方そのものが変わる可能性があります。一方で、何歳まで生きるかは事前には分かりません。だからこそ、自分で取り崩す金融資産だけでなく、公的年金など生存中に継続する所得にも異なる役割があります。

日本の研究からも、老後準備を平均的な一つの不足額だけで捉えるのではなく、誰が十分に準備できていて、誰にどのような資源が不足しているのかを見ることが重要だと考えられます。

したがって、老後準備で最初に問うべきなのは、「2,000万円を貯められるか」ではありません。「自分はどのような老後を送りたいのか」「そのために何が必要なのか」「すでに持っている資源と不足している資源は何か」を考えることです。もちろん、十分な金融資産を準備することは重要です。しかし、人生後半を支えるものには、人的資本、住まい、健康、社会関係、時間などもあります。

人生戦略としての老後準備とは、限られたお金・時間・人的資本・住宅・健康などを人生の各時期へどう配分し、人生後半の選択肢をつくるかを考えることです。「2,000万円」は、そのための答えではなく、自分自身の資源配分を考え始める一つのきっかけとして捉えるのが適切でしょう。

参考文献

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Brown, J. R. (2001). Private pensions, mortality risk, and the decision to annuitize. Journal of Public Economics, 82(1), 29–62.

Modigliani, F., & Brumberg, R. H. (1954). Utility analysis and the consumption function: An interpretation of cross-section data. In K. K. Kurihara (Ed.), Post-Keynesian economics (pp. 388–436). Rutgers University Press.

Oshio, T., & Shimizutani, S. (2026). Am I adequately prepared for old age? Financial preparedness for retirement in Japan. Journal of the Japanese and International Economies, 80, 101423.

Scholz, J. K., Seshadri, A., & Khitatrakun, S. (2006). Are Americans saving “optimally” for retirement? Journal of Political Economy, 114(4), 607–643.

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金融審議会 市場ワーキング・グループ. (2019). 高齢社会における資産形成・管理. 金融庁.

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